Cat Fez Blog

2022/01/30 22:43


冬が近づく月明かりの下でクロネコのチェリーは途方に暮れて泣いて鳴いてまた泣いていた。静態保存されている行き先ロールが「葦名橋」のままの市電1156号の床下で凍えながら震えていた。「優しいヒトはどこいったんだろう?今日も何にも食べてないよ。」


 「しっかりして下さい。ご自分のお名前言えますか?」緊迫したドクターの声がERフロア全体に響く。大里洋二はストライカーストレッチャーに横たわりながら過去と現在が混濁しながら意識が遠のいていった。


 昭和191025日、大里は海軍特別少年兵としてレイテ湾内の小沢艦隊旗艦空母「瑞鶴」に乗組んでいた。米航空機の凄まじい攻撃に敢えなく沈没する寸前に海へ投げ出されて高波に揉まれていた。「これにつかまれっ」旗艦に切り替わったばかりの僚船軽巡大淀の乗組員が長い木端を差し出してくれたその刹那、誰かが大里の太腿にしがみついて来た。襟章から下士官の少尉と分かった。

「離すんだ、このままだと二人とも死ぬぞ、後ろの奴は手を離せ、」と大淀の乗組員が叫んだ。そして別の木端を降り下ろした。当てた先は少尉の方だった。そのまま少尉は波間に漂っていき後は分からなかった。地獄だった。


 大里は命からがら帰国し、戦後の混乱を生き抜いて土建業で財を成し、引退してからは妻とも死別して久良岐公園脇の屋敷で一人で静かに暮らしていた。


 桜散るある日、チェリーは疲れ果てて公園の急な坂道に座り込んでいると魚粉を纏った格別にいい匂いのするカリカリをたくさん置いてくれた優しいヒトに出会った。


「わああっ、なんて美味しいんだろう!」痩せて小柄なチェリーは尻尾を直立させてあっと言う間に平らげた。


「お前さんは簡単に死ぬんじゃないよ。俺みたいに頑張って皆の分も長生きしなさいよ。」大里はチェリーを大切に抱き抱えて屋敷へ戻りその日からチェリーは屋敷で自由に暮らし始めた。柔らかで暖かい寝床、広い庭、食べ放題の美味しい食事、生まれて初めての幸せな時間だった。


 それも束の間、銀杏が降る昼下がり、窓いっぱいに頬杖で伸びた松の大枝が目に入って来る広大なリビングで何かが急に倒れる音と呻き声がした。ちょうどご近所が訪ねて来た所だったのですぐに救急車が呼ばれた。


浦舟町のセンター病院へ運ばれてすぐにERで懸命な蘇生が始まった。45分後ドクターは心臓マッサージ機と除細動器のスイッチをきった。助からなかった。


 また冷たくて長い孤独な夜が始まった。チェリーはとぼとぼと久良岐公園の売店のある野球グラウンドに向かって歩いて行った。その先に1156号がある。


 「ワタシはいつまで生きられるんだろう?どこへ行くんだろう?」


「覚えてるけどもう忘れちゃったよ。」


「また優しいヒトに会えるかな?」